続・人間老いやすく、学成りがたし: #戦争
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2023/08/23

「本土決戦」に向けた防空力増強のため、飛行場の建設が急きょ決まったことによる強制的に立ち退きと言えば、静岡県では現在の静浜基地ですが、埼玉県は水上公園なんですね。

  8月18日の朝日新聞デジタルに、「終戦間際に完成した飛行場 動員された住民らの苦労の跡、今は道路に」という記事が出ています。

 埼玉県南埼玉郡新和村・荻島村、現在のさいたま市岩槻区と越谷市に存在していた、昭和19年7月に建設を開始し、昭和20年に竣工するも、ほぼ機能することなく終戦となった通称「越谷陸軍飛行場」、地元では「新和飛行場」(越谷陸軍飛行場から約6.5キロ北の、東岩槻駅近くの稲荷神社に現存する、昭和22年農地開拓事業完成の記念碑建立のために滑走路のコンクリートを再利用して作られた「興農事業完成記念碑」には、「新和飛行場」と刻まれている。)と呼ばれているようです。付近の農家13軒が強制的に立ち退かされ、44年7月に工事が始まり、住民は工事を手伝うよう求められたということです。

 昭和19年と言えば、静岡県では昭和19年1月に建設が開始された「海軍航空隊藤枝基地」ですね。名称は藤枝基地ですが、実際は志太郡静浜村に建設され、この地域の農家も強制的に立ち退きを求められ、反対運動が展開されましたが、結局は同年12月から、彗星、零戦を保有した第131航空隊「芙蓉部隊」の母基地として使用されます。そのせいもあり、戦後は「航空自衛隊静浜基地」として第11飛行教育団等が配置され、航空機のパイロット候補生を対象に、初等練習機による訓練を行っています。航空ファンには「静浜基地航空祭」で名前が」知られているかもしれませんね。

 「越谷陸軍飛行場」は飛行場として機能しないまま終戦となったため、昭和54年(1979)開園した「しらこばと水上公園」(「しらこばと」は埼玉県のシンボルであり、県民の鳥としても親しまれていて、近年では埼玉県のマスコットキャラクター・コバトンとしても人気があります。)となったわけですね。でも、記事にある飛行場跡周辺の1947年と2013年の空撮写真を見ると、飛行場の跡がはっきりわかりますが、今や旧陸軍飛行場だったことは、知る人ぞ知るってところなんでしょうね。80年近く経てばそれも止むを得ませんが、この記事のように何らかの形で、この事実が埋もれないようにすることは大切なことです。

2023/08/16

歴史的な資料として、地域の住民が必要だと考えるものは、住民の手で残す努力をしなければ残せません。

 今日8月16日のあなたの静岡新聞に、「老朽化 消えゆく「戦争遺跡」 静岡・歩兵第34連隊 最後の施設解体」という記事が出ています(Yahooニュースに載っています)。

 今年6月に解体された歩兵第34連隊の「陸軍静岡練兵場訓練講堂」についての記事で、これに関してこのブログでもコメントしましたが、この訓練講堂は、建物の内部に催涙ガスをたき、連隊の兵士が防毒マスク装着を訓練したとの証言が残る、戦時中に兵器として使われた毒ガスに対応する訓練用の施設で、民間の個人所有者が払い下げを受け、近年まで倉庫や住宅として使用していたのですが、建物の老朽化などから所有者が昨年、取り壊しを決めました。しかし、所有者は静岡市に保存の観点から相談をしたのですが、「指定文化財にする基準に達していない」(市文化財課)として、解体前の図面の作成、記録にとどめたとのことです。

 「指定文化財にする基準に達していない」という判断は、そもそもその基準が明確になっていないので何とも言えませんが、本当に残そうと思うならば、基準などどうにでもなるわけですから、保存の対応を取らない言い訳に過ぎません。記事にもあるように、これまでも歩兵第34連隊関連施設の保存が問題になったことがありますが、結局ほとんど残っていません。

 県近代史研究会員の方の「「地域から戦争を見つめるためには実物を残す意義は大きい。市民から資料を受け入れる態勢を作ったり、記録保存をしたりすることが重要で、行政の力が必要になる」という指摘はもっともですが、静岡市の対応やその他の事例を考えると、保存にあたり行政に頼るのは、もはや時代遅れなのではないかと思います。そもそも、よほどのことでない限り行政がお金を出すことは考えられないわけですし、それで無くなってしまって地域の歴史を語るのに困るならば、地域の住民が自分たちの問題として保存に取り組むことが必要なのではないかと思わざるを得ません。ひと昔前だと大事でしたが、いまならばNPOを立ち上げてクラウドファンディングで資金を集めることも可能です。

 よくよく考えると、現在残っている前近代の歴史資料は、特に文字資料は自説の根拠となってくれる説明資料の文書であり、それは必要だったから関係者が保存をしてきたわけです。確かに建物の現物保存は非常に大変ですが、自分たちの歴史を語るうえで大切なものならば、自分たちの手で残す努力をしなければ、何も残すことはできません。行政に頼る文化財の保存はもう終わりにして、活用しながら残す道を探っていく時代なのではないでしょうか。

2023/08/15

戦後の日本の自由は、本当の自由なのか?

 今日8月15日の朝日新聞社説は、「戦後78年 日本と世界 自由を「つかみかえす」とき」というタイトルです。

 「占領下に置かれた日本は社会の自由を取り戻した。」とありますが、これは、本当なのでしょうか?

「『君たちはどう生きるか』の著者、吉野源三郎が当時の実感を回想している。
 「日本人自身が自分の手でこの改革をなしとげたというよりは外からの打撃によって旧(ふる)い勢力が打ち倒されたおかげが大きかったので、そう手放しに喜ぶことはできませんでした」(『職業としての編集者』)」

と、社説にありますが、外からの打撃によって旧い勢力が打倒されて、外からの勢力がそれに入れ替わり、その国のやり方に変わっただけなのではないでしょうか。我々は、日本として本当に自由を手にいれたのでしょうか。

 もし、日本として本当に自由を手に入れたのならば、「米軍統治下におかれた沖縄では、基地のため住民の土地が奪われた。権利が踏みにじられたまま日本復帰後の今に至る。」のは、何故なのでしょうか。自分の国の土地に対する権利が踏みにじられたままなのは、我々が本当の自由を手に入れていないからなのではないでしょうか。

 「この構造を日本社会はどこまで自覚してきただろうか。」というのは、我々が自由だと思っているのは、「アメリカが認める範囲内での自由」だということなのでしょうか。つまり、我々は本当の自由を手にした国家ではないということを指しているのでしょうか。

 ウクライナに対して、「負けて自由を得るという選択肢はない。」と言っていますが、歴史上、「負けて自由を得」た国が、どこにあるのでしょうか。

 「とことん議論する必要がある」のは、「防衛費の増額が内容の吟味も不十分なまま進」み、「貿易や投資にあたっては安全保障への配慮が当然のごとく語られ」、「「学問の自由」を守るため軍事研究に慎重な日本学術会議への政府の圧力が、やまない」のは、「アメリカが認める範囲内での自由」だからだということなのではないでしょうか。

 「敗戦で得た自由を、市民がわがものと受け止め、日々生かしてゆく。」などと社説に書くこと自体が、まさに「政府の責任を問うジャーナリストの役割」を果たしていないと考えられるのです。

2023/08/13

「現存する最大級の被爆建物」という点で、十分に国の重要文化財になりえますから、指定して当然だと思います。

 8月7日の朝日新聞デジタルに、「旧陸軍被服支廠の文化財指定 首相「速やかに審議」最大級の被爆建物」という記事が出ています。

 広島市南区にある、現存する最大級の被爆建物「旧陸軍被服支廠(ししょう)」について、広島県側が建物の活用策を定めることを前提に、求めに応じて国の重要文化財への指定に向けた審議を進める方針となったとのことですが、建物の活用案はともかくとして、重要文化財の価値は十分あると思います。この建物は1914年に使用が開始されていますので、来年の100年記念として指定して良いのではないでしょうか。

 全部で4棟あるわけですが、これらの建物はとにかく大きくて、県所有の第1~3号棟は91m×25m×15m、国所有の第4号棟は105m×25m×15mもあります。鉄筋コンクリート造とレンガ造が複合していて、これだけで重要文化財としての価値がありますが、この建物はさらに被爆直後に、被爆者の臨時救護所として使用されたという非常に重要な役割を果たしています。

 原爆を体験した人たちが少なくなってきているなかで、代わりに被ばく体験を訴えることができる建造物は、しっかりと保存し、原爆の恐ろしさ、戦争の悲惨さを伝える役割を担わせるようにすべきでしょう。