8月18日の朝日新聞デジタルに、「終戦間際に完成した飛行場 動員された住民らの苦労の跡、今は道路に」という記事が出ています。
埼玉県南埼玉郡新和村・荻島村、現在のさいたま市岩槻区と越谷市に存在していた、昭和19年7月に建設を開始し、昭和20年に竣工するも、ほぼ機能することなく終戦となった通称「越谷陸軍飛行場」、地元では「新和飛行場」(越谷陸軍飛行場から約6.5キロ北の、東岩槻駅近くの稲荷神社に現存する、昭和22年農地開拓事業完成の記念碑建立のために滑走路のコンクリートを再利用して作られた「興農事業完成記念碑」には、「新和飛行場」と刻まれている。)と呼ばれているようです。付近の農家13軒が強制的に立ち退かされ、44年7月に工事が始まり、住民は工事を手伝うよう求められたということです。
昭和19年と言えば、静岡県では昭和19年1月に建設が開始された「海軍航空隊藤枝基地」ですね。名称は藤枝基地ですが、実際は志太郡静浜村に建設され、この地域の農家も強制的に立ち退きを求められ、反対運動が展開されましたが、結局は同年12月から、彗星、零戦を保有した第131航空隊「芙蓉部隊」の母基地として使用されます。そのせいもあり、戦後は「航空自衛隊静浜基地」として第11飛行教育団等が配置され、航空機のパイロット候補生を対象に、初等練習機による訓練を行っています。航空ファンには「静浜基地航空祭」で名前が」知られているかもしれませんね。
「越谷陸軍飛行場」は飛行場として機能しないまま終戦となったため、昭和54年(1979)開園した「しらこばと水上公園」(「しらこばと」は埼玉県のシンボルであり、県民の鳥としても親しまれていて、近年では埼玉県のマスコットキャラクター・コバトンとしても人気があります。)となったわけですね。でも、記事にある飛行場跡周辺の1947年と2013年の空撮写真を見ると、飛行場の跡がはっきりわかりますが、今や旧陸軍飛行場だったことは、知る人ぞ知るってところなんでしょうね。80年近く経てばそれも止むを得ませんが、この記事のように何らかの形で、この事実が埋もれないようにすることは大切なことです。
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