5月28日の朝日新聞デジタルに、「武田軍を破った「設楽原の戦い」 鉄砲玉が示す徳川家康の独立性」という記事が出ています。
織田・徳川連合軍と武田軍が戦った「長篠・設楽原の戦い」は、織田・徳川連合軍が鉄砲を使って武田の騎馬軍団を破った戦いとして有名ですが、近年の研究から武田方も鉄砲があり、そもそも武田の騎馬軍団と呼べるような部隊はなかったなど、従来の見解とはかなり変わってきていますが、鉄砲が勝負の決め手になったことは間違いありません。
織田・徳川連合軍が使った鉄砲は3千丁、武田軍は500~1千丁といわれていますが、記事によると、鉄砲の数の差というよりは、「玉の数と火薬の量」が大きなポイントだったようです。
「長篠・設楽原の戦い」の合戦跡にたつ愛知県新城市の市設楽原歴史資料館の周辺では、17個の鉄砲玉が見つかったいて、そのうちの3個は徳川軍が自ら調達した鉛でつくったものと考えられるようで、鉄砲玉の原料となった鉛の成分を分析した結果、家康の時代に鉛などの鉱石を産出していた新城市内のものと成分が一致したということです。
また、設楽原では、外国産の鉛と成分が一致する玉も3個見つかっており、戦国時代には外国産の鉛を入手できるのは大阪・堺を押さえていた織田信長ぐらいで、火薬も南蛮貿易で堺からだったため、信長の助けがなければ、家康も調達ができなかったと考えられ、そこから信長と家康の関係性がわかるわけです。
このように、1個の鉄砲玉から、他のいろいろな史料とともに検討することで、様々なことがわかるところが、歴史学の醍醐味ですね。
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