1月30日の朝日DIGITAL静岡版に「「渋江抽斎」協力の渋江保に新事実、郷土史家ら「注目を」という記事が出ていました。
渋江保は、森鷗外の代表作「渋江抽斎」の主人公渋江抽斎の実子で、鷗外に資料を提供した人物として知られていますが、静岡県とのかかわりの深い人物です。というのは、渋江保は師範学校を卒業した1875年、浜松瞬養学校(浜松北高の前身)に赴任し、その後浜松師範学校の教頭となり、79年10月まで浜松にいました。その後静岡を離れましたが、85年健康を害して、周智郡領家村(のち犬居村、旧春野町、現在の浜松市天竜区春野町)に転居しました。その後静岡に転居して静岡英学校(のち静岡英語専門学校)、静岡高等英華学校、静岡文武館、渋江塾で英語教育にかかわっています。教え子には山路愛山や松本亀次郎がいます。また「東海暁鐘新報」の主筆として、前島豊太郎や中江兆民の影響を受けて活躍しています。
記事の新事実とは領家村時代の話であり、当時未婚だったはずの保が「渋江モン」という女性と地元有識者の勉強会に出ていた新聞記事を発見したというものです。この時期の新聞ですので、「静岡大務新聞」であり、85年5月15日づけ「静岡大務新聞」には「領家村の栗田輝永氏の邸内へ先頃より英学研究所なるものを設け」とあり、渋江保の名前はできてきませんが、『嶽陽名士傳全』の「栗田輝永君之傳」同じ内容の箇所には渋江の名前が見られます。記事に出てくる山本勉氏の論文(「静岡黎明期の英語教育と渋江保」)によると、ここに出てくる渋江は渋江保であるとのことですので、記事に出てくる「地元有記者の勉強会」は、領家村の名望家であり、県会議員を務めた栗田輝永に関係がある可能性があり、そこで「渋江モン」という、渋江保と関係がありそうな女性の名前が出てきているわけです。この時の渋江は一般的には「病気療養」とされていますが、山路愛山の『独立評論』に渋江が書いた文章によると、「明治十八年頃精神過労のため毎日新聞を止め」、領家村で静養していたとあるので、仕事のストレスから新聞を止めただけとも思われますので、本来の英語教育者として、また自由民権運動の啓蒙家として活動することは当然ある話ですし、女性も身近にいた可能性はあるでしょう。「渋江モン」という女性がどういう人物なのか、この時期ですので資料はあまり多くないと思われますが、何かわかるとおもしろいですね。
山本氏が記事の中で言っているように、渋江保はもっと注目されてもいい人物であるということに強く共感します。渋江保本人の著作はたくさんあるのですが、評伝とかはまだないと思いますので、ぜひ欲しいですね。
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