12月19日に開催された中央教育審議会で、「「令和の日本型学校教育」を担う教師の養成・採用・研修等の在り方について~「新たな教師の学びの姿」の実現と、多様な専門性を有する質の高い教職員集団の形成~(答申)」が取りまとめられ、公表されました。
現状認識を踏まえて、「4. 今後の改革の方向性」が示されていますが、これがいろいろな意味で個人的に突っ込みどころ満載で、何か言っておきたいので、少しコメントしておきます。
「(1) 「新たな教師の学びの姿」の実現」のなかで、「高度な専門職である教師は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努める義務を負っており、学び続ける存在であることが社会からも期待されている。」とあるのですが、そもそも本当に社会からそのように期待されているのでしょうか。近年は「これって学校でやることなの?」と感じるような問題が学校に持ち込まれ、「子どもの成長のため」と言い聞かせて対応しているようなことがあったりするのですが、本当に「高度な専門職」として「学び続ける存在である」との社会認識が存在するのならば、このようなことはないのではないでしょうか。答申にあるように、「主体的に学び続ける教師の姿は、児童生徒にとっても重要なロールモデルである」」ということには同意しますが、それを期待するのならば、そのようなことができる時間的余裕が必要です。現在の学校現場では、教師が学ぼうと思う気持ちすら持てない学校が多々あるのです。
「(2) 多様な専門性を有する質の高い教職員集団の形成」のところに、「③. 学校における働き方改革の推進」の話が出てきますが、そこに「教師でなければできないことに全力投球できる環境を整備することが必要である。」とあるのですが、その「教師でなければできないこと」って何なのか、そこを明確にしなければ、前述したように学校にいろいろな問題が持ち込まれ、教員の多忙化につながるわけです。教師は「学び」における「高度な専門職」であるはずですから、「教師でなければできないことに全力投球できる環境を整備する」ためには、「学び」以外のことを学校から外さないとダメです。
「(3) 教職志望者の多様化や、教師のライフサイクルの変化を踏まえた育成と、安定的な確保」で、「大学での教員養成については、幅広い教養を学びつつ教師としての専門性を磨く、という意義があり、教職課程の修得の結果として授与される教員免許状には、教壇に立つ上で最低限の能力を公証するという性格がある。」とありますから、教師の本分は授与された免許状に書かれている教科を教えることであるということであり、それを踏まえるならば、上記の「教師でなければできないこと」、つまり教師がやるべきことは、各教科の授業だということです。
以上を踏まえると、教師は「各教科を教える専門職」であるということが言えるわけですから、「第Ⅱ部 各論」のなかで述べられている教師の「「強みや専門性」とは、データ活用、STEAM教育、障害児発達支援、日本語指導、心理、福祉、社会教育、語学力やグローバル感覚なども含まれる。」という話をする前に、まずは自分の専門教科の専門性を高めることを優先すべきであり、それらを学ぶことが大切であるということを、強く言うことが一番大切なのではないでしょうか。現職教師も、教職を目指す学生も、そのことを強く認識すべきであり、社会全体に強く主張すべきです。おそらく専門教科の専門性を高めるような学びをしていけば、データ活用やSTEAM教育、日本語指導、社会教育、語学力やグローバル感覚なども学ぶことになるものと思われます。
学校は「勉強するところ」、教師は「勉強を教える専門職」、社会全体がこれをもっとしっかりと認識するようにすべきです。
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